「緑色の恋」<03>・・・月村青衣著
八月の半ばに恒例の「取手花火大会」が利根川河川敷で行われた。一緒に行く約束をした妹に都合ができて、萌は迷ったあげく一人で家を出た。母親の浴衣の着付けを冷たく断って、普段着のままだ。
あわただしく九月から転校が決まり、パニックだった萌の頭も数日を経て、やっと、あきらめの境地に達した。今度の転校ばかりは萌の小さな胸に重く響いた。想いを寄せた中沢とやっと親しくなれそうな、そんな気がした矢先だった。「運命的」という素晴らしい言葉を、石丸先生からもらったばかりだというのに。
大利根橋はすでに人波であふれていた。まだ、空は完全には暮れきっていない。萌は、なんとか橋の欄干に身体を寄せることができた。
打ち上げが始まった。するすると昇った火の玉が身体の芯まで響く音とともに、夜空に大輪の花をひらく。悲鳴とも叫びともつかない歓声が挙がった。
隣の家族連れが移動したので顔を向け、何気なく数メートル先に目をやった萌は自分の目を疑った。
欄干にもたれて夜空を仰いでいる少年の横顔は、まぎれもなく中沢だった。空いた隣はすぐに数人の男女で埋まり、あっという間に萌の視線は中沢に届かなくなった。
自転車を運んでくれた礼を言うチャンスだと気が付き、萌は欄干から離れたが、橋の上は身動きもとれないほどの混雑だった。大人たちの硬い身体に弾かれ、進みたい方へなかなか進めない。中沢のいた場所さえ見当がつかなくなった。
名前を呼ぶ勇気もない。萌は途方に暮れたが、「最後まで居よう。そうすれば、必ず中沢くんと逢える」と、すぐに思い直した。
九時近くなると、人々が動き始め、萌は中沢を探し始めた。そして、不意に目の前の二重、三重の人の波が動き、萌は欄干に戻ることができた。
首を伸ばして左右を窺ったが、中沢の姿は見えない。萌の感覚では、すぐそばに居るはずだった。
萌は欄干を離れた。家路を急ぐ人波はさらに増え、萌もその流れにのりながら、周囲を見回したが、大人たちが邪魔をするように、視線の行く手をはばんだ。
萌はあきらめて家へ向かった。国道沿いの道を歩いていたとき、何気なく十メートルほど先の歩道橋に目をやった萌は、その上を渡っている中沢を見つけた。
萌は走り出した。息を切らしながら階段を駆け上がった。中沢の背中に向かって、「中沢くん」と呼んだ。信じられないことが起こった。もう一度、中沢の名を呼んでみた。愕然とした。声が出ていない。中沢の背中は消えていた。萌はその場にうずくまった。
走って帰った。家のドアをあけると、無意識に、
「おかあさん」
と呼んでいた。
「どうしたの、そんなにハアハア言って」
「あれ、声が出てる」
「なに言ってるの」
萌は母親の胸にすがって、泣き出してしまった。
「いったい、どうしたの」
「なんでもない。ああ、よかった」
「なんだか、さっぱりわからない。誰かに追いかけられたの」
追いかけたのは、自分のほうだとは言えなかった。
自分の部屋に入り、机の前に座った萌の胸はまだふるえていた。これが恋なのか。
これほどまでに中沢を想っていた自分に驚いていた。萌は恋の正体を知った。声まで奪ってしまう恋の力を。
二学期の初日、萌はクラスの仲間たちに別れの挨拶をした。
中沢のクラスを覗くと、相手が先に萌を見つけて出てきた。
「どうした? 身体だいじょうぶか」
意外にも中沢は男らしい声を出した。クラスメイトへの挨拶では歯を食いしばっていた萌の目から、一気に涙があふれ出た。
「自転車、どうもありがとう」
しゃくり上げながら伝えた。
「どうしたんだ?」
「だいじょうぶ、治ったから」
萌はその場を去った。
中沢に別れの言葉さえ告げずに、萌はその日の午後、静岡へ向かった。
二年後、桂木家は千葉県の柏市に新居を構えた。父親が本社勤務になったのだ。茨城県取手市に住んでいる中沢の家とは県こそ違ったが、常磐線快速で駅が三つ離れているだけだった。
転校した高校から萌は東京芸術大学に進んだが、必ず逢えると信じていた中沢の姿は上野のキャンパスになかった。
四年生になった萌は夏休みに、後期から通う取手キャンパスへ家族と一緒に下見に出かけた。
その日、萌は-。